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映画。本。音楽。旅。学生の”ざっくばらん”

学生の頭のメモ帳です。ふと浮かんだことを書いていきます。

必読。眠れない夜にオススメの一冊

たまに、どうしようもなくねれない、眠たいけれども、ねられない。なんて夜があると思う。

 

そこで一冊紹介するのが、

ヒルティの「眠らねぬ夜のために」

という本である。

 

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この本は、先ほど述べたようなどうしても眠れない夜がある人、不眠症なんてものに悩む人には是非おすすめしたい。

 

まあざっくりいえば、夜ねられない人は何故ねれないのか?将来に対する不安、失敗での自責の念、ストレス、または興奮。色々考えられると思う。

 

しかし、この本はねられない夜はつらい。それは当たり前だと心得た上で、

 

寝られない夜を

「神から授けられたもの」として、

日々の自己反省の静かな妨げられないと時間として受け入れることを諭すのだ。

 

そして、人生の転機となるような洞察を促そうという話である。

 

これはなんとも画期的な話で、まずは眠られない夜は辛いもので誰にもありうる事象である。

 

でもそれを、あえて受け入れて”神”という存在を用いて正当化してみる、このような西洋的な視点がなんとも興味深いけれども、

 

自分はこうした考え方は、なるほど面白いかもしれないと思い、自分でも実践してみたりした。

 

すると、まあこの夜という時間はたしかに不思議でなにも邪魔がないのである。確かに自分が1人だけで思考に集中できるのである。

 

日々起こった、行動への反省など思うべきところは考え、それでもこの寝られない夜という深い時間の中ではそれをしっかり消化できる。

 

そうすると、次の日頭が少しクリアになったような、脱皮したような感覚になる。これは、確かにやってみる価値があると思う。

 

今自分が紹介したのは本のたった一部に過ぎないけれども、この本にはそうした悩める夜でのヒントが多く詰まっている。是非オススメしたい一冊。

 

それでは、眠れぬ夜をお大事に。

 

2月22日 猫の日~猫という絶妙な存在~

2月22日は猫の日である。

 

これは、猫が好きあるいは猫を飼っている人ならきっと皆共有している、いわば天皇誕生日といっても過言ではない日ではないだろうか。(過言)

 

きっと夏目漱石だって、カートコーバンだって猫の日だけは筆もギターもおいていたに違いない。これは確信。

 

そうはいう自分も実家で猫を飼う、猫バカの一人だ。

うちの猫はメスの5歳になるミケで、顔はどちらかというと松雪泰子似の美人である。

(過言ではない)

 

まあうちの猫の自慢は今回は置いといて、猫の日にちなんで猫の存在についてふと考えたことを書こうと思う。

 

猫という生き物。または、存在はよくツンデレという言葉で知られる。

確かに、言葉のとおり猫は家族がそろって大人数で囲まれているとツンとし、家に自分と猫だけだったりすると途端にデレとなる。

大概の猫好きはこのギャップの虜になっている。それは間違いない。

 

ただ、猫という存在を少しだけ深く考えると、

実は猫という生き物はある種の絶妙な”存在感”のようなものを持ち合わせている、その”存在感”こそが猫の魅力なのではということが頭に浮かんだのである。

 

猫という生き物は、例えば家にいるときでも、外でみかける時でも存在自体は確かにそこにいる、勿論こちらから手を伸ばして触れ合うこともできるし、

別に触れ合わなくてもいい。そこにいるだけでも猫としての魅力がある。

 

家では、たとえばリビングや縁側で横になり、そのそばで猫がいること、

それだけで私たちは心が満たされる気がするし、猫はいるようでいないのだ。

外でも同じ猫を見かけて、最初は頭を撫でたりするものの、あとはその風景に猫が存在しているそれだけでその風景は完成される。

 

犬のように散歩をするわけでもなく、一緒に公園にでかけるでもない。それでも、お互いの生活に干渉しすぎない、かつお互いを満たしている。

猫が持つこの絶妙な存在感、いるようでいない安心感が自分は好きである。

 

そして、これからもこの存在に魅せられていくのだと感じる、ふとある猫の日だった。

 

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最後に。これがうちの松雪泰子である。

(過言ではない)

 

 

 

Copenhagen

これは2月にバックパックでデンマークのCopenhagenに行った時に買ったポスター。

Copenhagenでは1日自転車を借りてブラブラして、良い感じの古着屋?があったので入ってみた。

すると、内装は北欧らしくシンプルに洗練され、80年代くらのレコードやヘビメタのコンサートの張り紙等興味深い物がズラリ。

雰囲気は北欧らしさのホッコリとちょっとスパイスの聞いたロックが一緒にあるような感じで、入って間も無くその店の虜になった。

そんな店の中央には大きな加工されてないような木で作られたテーブルがあり、その上に何枚かの大きな紙、ポスターか。と思ったが惹かれたのはそのデザイン。北欧らしいような、絶対には日本では描かれないあの特徴的な感じだ。自分はあの美形な北欧の人々が自分たちをああやって一本の線で全く美しさを主張することない形で、芸術的に描くのがとても好きだ。

まあ、その絵には皆確かに女性が描かれていてそして向こうの文字が大きく書かれている。ちなみに色は皆赤やオレンジが使われていて何かを訴えているのが全く読めない文字越しにも伝わる。

これは何だろうか。と思っていると、店の奥からおばあさんがでてきた。おばあさんといっても、きている服はまるでパルプフィクションにでてくる女優のようにエナメルのミニスカを履いて素足を出し、ハイヒールを履いている。これにはちょっとたじろいだがおそらく店の中では自分と彼女の2人だけなので話しかけることにした。彼女は、普通のおばあちゃんではない、見た目からもわかるように自分に誇りがあるとでも言おうか、
とにかくその身のこなしに威厳を感じた。

これは何?と聞いてみるとおばあちゃんは
「ただのポスターじゃないわよ。」
と冷たい口調でいった。

じゃあ何のポスターなの?と聞くと
「これはfeministのプロパガンダなの、わかる?」とさらに語気を強めて言われた。

なるほど、とその時ポスターから感じられる強いエネルギーとそのおばあちゃんの威厳の意味を理解した。

「あなた買うの?買わないでしょう。」というようなニュアンスでおばあちゃんはいった。feministなんて買ったらあんた変って思われるわよという感じだったと思う。

そこで「いや、買うよ。feministじゃないけど」
といった。するとおばあちゃんは
「そう、あなたどこから来たの?」
と聞き、「JAPANだよ」と答えると

「あなたがそれを日本に持ってくことに意味があると思うわ」と、いった。その時初めておばあちゃんの笑顔をみた。ちょっとニヒルなかんじがなおさら印象的だった。

「うん、この赤のやつデザインが気に入ったよ。もちろんこの意味も忘れないけど。ちゃんと日本に帰ったらみんなに伝えるよ。」と僕が言うと

「いいわね、女性は強いのよ。忘れないで」
「うん、忘れない」といって会計を済ませて店をでる間際もう一度おばあちゃんをみると、

「サヨナラ」といってくれた。
その時おばあちゃんと一緒に写真を撮ろうと考えたが、それはやめた。きっとおばあちゃんは写真が嫌いだとなんとなく思った。

そして「ありがとう、またね!」といって店を後にした。


この数十分の店でのやり取りは自分はずっと忘れないと思う。このポスターを見る度にあのおばあちゃんが頭に浮かんでそして今日おばあちゃんとの約束としてこの話をブログにしてみた。

今このポスターは僕のベットの上に飾ってある。

ケルアック

 

最近、ジャック・ケルアックを読んでいる。

ケルアックといえば、まず「オンザロード」が有名な作品として挙がる

アメリカのビート文学の象徴のような小説家である。

 

正直オンザロードは、2012年あたりに映像化されたものが割と完成度が高く、

特にディーンに関しては自分の想像を具現化してくれたようなファンキーぶりで

その容姿から雰囲気までが観ていて感動を覚えた。

(内容の絞り方はやはり映画化という感じだが笑

 

まあ、このオンザロードに関しては言わずもがななのだが、

ケルアックでもうひとつ紹介したいのが「地下街の人びと」である。

 

この物語は、アメリカのサンフランシスコの地下街で破滅的、刹那的、叙述的ともいえる生活を送る人々を描きながら、主人公と黒人マードゥとの恋を綴るまさにビートニクといえる作品である。ここで描かれるシスコの地下街の人々は、ドラッグや酒、セックスに溺れる中で、人生とは何かなんて考えていない、ただ与えられた日々を過ごす。

 

しかし、ここで冒頭のあるセリフが印象的だった。

「地下街の人びとは口べただがもののわかった人たち、古臭い知性とは違った知性をもった人たち、とても知的でパウンドのことなら何でも知っているがそのことを鼻にかけたりまくしたてたりしないひとたち人たち、とても静かでキリスト教徒のような人たち」

 

このセリフはとてもクールだと思った。

別に破滅的に生きてるからと言って、頭が破滅しているわけじゃない

もしかしたら、全うに生きているつもりでも頭は破滅しているかもしれない。

 

地下街の人びとは確かに生きるレールからは逸れてしまった存在である。

でももしかしたら、レールなんてなくたって自分なりの感覚、知性を持っていて

それを別に他に主張しなくてもいい、自分の生き方を受け入れているから。

 

もしかしたら、この地下街の人々は地上という生きる上で当たり前の環境から逃れた

ある一種の存在かもしれない。

 

全うに見える道だけを選んで生きるよりはもしかしたら地下街の人々のように生きてみたら自分だけの感覚をつかめるかもしれない。

SNSで、価値観や生き方のサンプルを並べられ麻痺してしまう前に

一度、地下街、電波の届かない地下に行ってみるのも面白いかもしれない。

 

 

なんていう梅雨のある日の、ふと思ったこと。